有田焼の歴史



街かどでふと見かけた小さな絵皿、その中に有田焼400年の歴史がある。陶工、商人、貴族、船乗りたちのあやなす夢とロマンと愛を物語ってつきない、静かな語りべだ。東西文化の血脈が、ここ有田に交錯した。
小さな絵皿がある。白い磁肌に、草花と小鳥──よく見かける絵皿だ。家庭の食器棚の片隅に、又ショーウインドウの中に置かれている。このこっそりとした存在は、朝鮮、中国、ヨーロッパにまたがる有田焼400年のドラマを無言のうちに物語っている。
白い磁肌と染付呉須は、朝鮮から伝えられ、鮮やかな花びらを描いた赤は、長崎の中国人たちの手でもたらされた。
色絵の技法は、中国の明代の赤絵がお手本だった。またオランダ人たちが、有田の焼物を大量に買い付けて、はるばるヨーロッパに運ばれなかったら、産業としての有田焼は、今日とは違ったものになっていたかもしれない。さらには、オランダ人たちのヨーロッパ感覚の影響も、有田焼の絵柄に色濃く影を落としている。
鎖国政策の下で有田はめざましく国際社会の空気を呼吸した珍しい例だ。その歴史は東西文化の交流史ともいえるだろう。

白い磁肌に、無数の人々のこめられた想いをみた。
まずはじめには入って来たのは、朝鮮文化の血脈だ。
二度にわたる秀吉の朝鮮出兵──その撤兵の際、諸藩は多くの陶工たちを伴って帰って来た。
そのひとりが、有田焼の陶祖と崇められる李参平だ。かれは韓国忠清南道鶏竜山金江の人で、あとで金ヶ江姓を名乗り、子孫は今に続いている。李参平は現在の有田泉山で陶石を発見し、天狗谷窯を築いて、日本ではじめて白磁を焼いた。
指ではじくと、澄んだ高い音が響く有田焼、この白磁の余韻は、朝鮮人陶工たちの望郷の念をひとしお誘ったことであろう。
李参平だけではない。梅の花びらの1枚にも遠いドイツ王侯の、オランダ人たちの、中国人たちの、そして何よりも有田を支えた有名無名の数多くの陶工たちの想いがこめられている。
硬く、白く、透明な磁肌に感じられる不思議な暖かさ──それは、この無数の先人の生きざまと想いがあるからだろうか。

有田の磁器の美はヨーロッパを酔わせた。
李参平が最初の窯を築いたのが17世紀初頭といわれる。このころ、日本も世界も、時代は激しく揺れ動いていた。
1600年、オランダ船が大分海岸に漂着、その2年後、有田の歴史に重要な役割りを果たすことになるオランダ東印度会社が設立された。そして、国内では1603年、江戸幕府が開かれた。
東洋貿易の覇権はスペインの無敵艦隊がイギリスに破れたのをきっかけに、ポルトガル、スペインから、イギリス、オランダなど新興勢力へ移った。その尖兵としてオランダ東印度会社の商船は、17世紀半ばから、長崎の出島を通じて有田に白磁の大量注文を開始した。以来250年間、総船数700余隻、船員1万余人のオランダ船隊は、有田で生まれたこの美しい焼きものを、ヨーロッパへ運び続けた。
17〜18世紀のヨーロッパの王侯、貴族にとって、日本や中国の陶磁器は、金、銀と同じ価値を持っていた。かれらはオランダのアムステルダム港に陶磁器専門の買付け代理人を置いたという。そしてハプスブルク家、ブルボン家、ハノーバー家など当時のヨーロッパの支配者たちは、コレクションだけではあき足らず、他国から陶工や絵付師を連れて来て自領内で焼かせるほどになった。
有田の美に酔いしれた王侯の典型──それがドイツ・ドレスデンの王オーガスタ汾「である。

エルベ河畔の城は、伝統の山水画を思わせた。
ドイツのザクセン選帝侯オーガスタ汾「は古伊万里の熱狂的コレクターだった。
かれは、自分の日本陶磁器コレクションをもとに、そのころでは唯一最大の陶磁器美術館を建設し、日本宮と名づけた。その外観とインテリアはすべて日本調という凝りようで、陶磁器だけでなく、日本の風俗、習慣、そして植物まで珍重した。なかでも、磁器の絵柄の蜜柑に魅せられ、宮殿の庭に植えただけでなく、建物の外壁にも彫り込んでいる。磁器の絵柄は、城塞建築そのもにさえ影響を与えた。
山寄りに建てるのが常識だったドイツの城。ところが、ドレスデン近郊のピリニッツ城やモーリニッツ城は、エルベ河畔に建っている。磁器の絵柄の代表例、山水画を模しているのだ。こうした風潮を、美術家はシノアズリーと呼んでいる。
シノアズリーは、後期バロック調からロココ調への発展のもととなり、ヨーロッパ美術史上に大きな足跡を残した。

ドレスデンの日本宮とポーセリンキャビネット。
日本宮──
その内部は、幻想美に満ちていた。まず1階は、東洋の陶磁器が全室にはられた絹のカバーを背景に陳列される。2階はマイセン製陶磁器の陳列だ。また廊下には数百の陶磁製大型動物像を並べる。王の謁見の間には、陶磁製の天蓋と玉座、礼拝堂には同じく陶磁製の祭壇、説教壇・・・・・。
まさに陶磁器の城だ。残念なことにオーガスタ王は日本宮の完成を見ずに世を去った。
だが、その壮麗なコレクションのおもかげは今、古伊万里手1000余点、柿右衛門手200余点に及ぶというドレスデン美術館にしのぶことができる。オーガスタ王ほどではなくても、当時の王侯、貴族たちがいかに熱愛したか、各国の城に残るポーセリンキャビネットが、まざまざと伝えてくる。
壁、天井、床、テーブル、照明器具、ありとあらゆるところを陶磁器で絢爛と飾り立てた部屋──ここでどのような政略がこらされ、ロマンスが囁かれたのだろう。

ヨーロッパの磁器生産はマイセンから始まった。
オーガスタ王は、陶磁器の輸入だけでは満足できなかった。
練金術師ベドガーを強制的に連れて来て、マイセンに製陶工場をつくった。ここでつくられた白磁の肌に描かれたのは、東洋的な、というより日本的な絵柄だった。
竹に黄金の虎、栗にうずら、芝垣・・・・・それはヨーロッパ風にアレンジされてはいるが、柿右衛門スタイルそのもだった。
このスタイルの絵柄は、現代のマイセンの作品にも受け継がれている。
日本の赤絵の開祖といわれる柿右衛門は、本場有田でも、その長い伝統に裏打ちされた美しさで人々を魅了しているが、もうひとつの柿右衛門もまた、現代のヨーロッパにきらめいている。そして、このマイセンこそ、ヨーロッパ磁器発祥の地であり、4世紀にわたってヨーロッパの焼物をリードして来た。
オーガスタ王の功績は大きい。

有田はヨーロッパを学び、吸収した。
有田は一方的にヨーロッパに製品を送っただけではなかった。ヨーロッパの方でも、さまざまなものを有田に与えた。
1641年、オランダ商館が長崎の出島に開かれた。
出島にはカピタン(商館長)をはじめ多くの東印度会社職員、商人たちが住んだ。かれらは白砂糖、時計、象牙などと一緒に珍しい異国の風俗やバロック美術の感覚を持ち込んだ。なかでも17世紀後半、半世紀近くもカピタンを勤めたワグナーは、有田の陶工たちに新しいデザイン、技術を教えた。それまでの絵柄の常識を破った、梅を簡潔に配した色絵磁器は好評を受け、のちに中国の陶工たちにも模倣されたという。有田焼の純日本的な絵柄の中にさえ、どこか漂っているエキゾチシズムの秘密がここにある。

庶民のくらしから生まれ、庶民がつくった古伊万里。
ひとつの絵皿を見よう。有田焼には大きく分けて三つの流れがあるが、その絵模様やスタイルを見れば、どの流れに属しているか、どんな歩みをしてきたかがわかる。
まず古伊万里系がある。
古い有田焼が、伊万里港から積み出されたため、この名がついた。ほんとうは古有田焼とでもいうべきだ。そのあとに続く柿右衛門系、色鍋島系を除く有田の古陶磁すべての名称といってさしつかえないだろう。
そして、古伊万里を後世に残したのは、大勢の名もない陶工たちだ。きわ立った特徴は、全面模様が多く、金や赤を大胆に使い、鳳凰あり、龍あり、あるいは菊、ぼたん、松竹梅と多彩な絵柄は、豪華絢爛の名にふさわしい。
その絵柄は、まず中国の明の影響を受け、次にヨーロッパ・バロック調、ロココ調の美術と交流し、さらに元禄文化の人間くささに染まる。無名の陶工たちによってつくられた、庶民の様式といえる古伊万里系は、まさに人間のくらしの歴史そのものだ。

小さな絵皿は、優しく語り続ける。
柿右衛門系となると、古伊万里系とまったく印象が一変する。
にごし手の地肌をバックに、絵はやや控え目に、左右のバランスをくずして、独得の調和美を格調高く見せる。
そのスタイルはヨーロッパマイセン窯でコピーがつくられるほどにもてはやされた。
そして、もうひとつの流れ色鍋島がある。
鍋島藩は、有田焼のルーツともいえる明の官窯景徳鎮をまねて、藩窯をつくった。
古伊万里や柿右衛門様式のものは、一般の商業ルートで流されたが、この色鍋島だけは、藩御用か、禁裡、幕府への献上用につくられた。初めは有田の岩谷川内、次に南川原山、末期に大川内山へ移動した。鍋島藩は、この色鍋島を徹底的に保護した。
廃藩置県とともに藩窯の歴史は終わったが、その情報、流麗、気品の伝統は変らない。
その上絵を描いた赤絵師のひとりが、今右衛門家で、今も、優雅で貴族的な絵柄で人々をひきつけている。
ちなみに、この色鍋島の文様の中にも、世界文化の交流の跡がある。インド、ペルシアなどの幾何学模様が起源らしい更紗模様は、20世紀の今日もみずみずすい。

400年の長い歴史を踏まえて
最後に有田焼前史ともいえる古窯について語ろう。磁器ではなく陶器だったが桃山末期の有田の山里には、数多くの登り窯が築かれていた。
清六の辻、小溝、山辺田などに、庶民の生活雑器を焼いた古窯跡が残っている。
有田に咲いた白い花──磁器、この美しい焼きものが、今日の繁栄を見せているのは、500年をさかのぼる焼物の土壌があるからだろう。気の遠くなるほど長い、長い歴史を持つ有田。
21世紀を間近にした今日、柿右衛門、今右衛門などの伝統手法は、いよいよ磨きかけられ、若い作家達も、点在する大小の工房も、次々にすばらしい意欲作を作り出している。

21世紀へ、有田は逞しく歩き始めた。小さな絵皿の中の、壮麗なロマン。

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